便利を買って喜ぶのはもうやめた
私はバブルが崩壊した平成5年に生まれた。
平和なのは当たり前、物心ついたころにはケータイ電話も小さくなっていたし、高校生の頃にはスマホが世の中の主流になった。
今や掃除機は自動で掃除してくれるし、洗濯も乾燥までスイッチ一つ。私は不便を知らない。
だからこそ、私は全部自分でちゃんとできるようになりたい。
ボタンを押すことしかできない人間になりたくない。
きっかけは北海道胆振東部地震
2018年、生まれて初めて大きな地震にあった。
もっとも揺れた厚真町では震度7を記録した。私の住む町では震度4~5程揺れ、2日間停電状態。
当然買い物もできない、ガソリンも入れられない。
季節が秋だったのでよかったものの、もしこれが冬だったらとぞっとした。
この停電した「たった2日間」で自分の生活がどれだけ機械や電気に頼っているのか痛感した。
それらなしでは、できることがあまりにもない。
人に売ってもらわなければ食べ物すら食べられない。
何があるかわからない未来に備える
そして考えた、お金がたくさんあってサービスをたくさん受けられる人と全部自分でできる人、どっちが最強か。
ひとたび災害などで「お金」が価値を失った(使えない状況に陥った)とたん、お金の価値はなくなる。
いま、私たちは自分で働いた対価としてお金をもらい、他の人が提供してくれるサービスと交換している。
そのサービスは多様化し経済を回しているが、そのほとんどがあったらいいなを形にしたもので絶対にないといけないものはそれほど多くはないだろう。
私の世代は不便を知らないから、便利失ったときにどうしたら良いのかわからない。
より多くのお金を稼ぐ時間を作るために、そのお金を使って家事を全自動の機械にやらせる。
そうやって経済を回している歯車になっているかもしれない。
そして、能力は知らず知らずのうちに機械に奪われている。
自分の身は自分で守る、ということ
もちろん、そのすべてが悪いと言っているわけではなくて「便利さ」は人が人を思って作り出した賜物。
困っている人がいたから便利にしようとしたんです。でも、そろそろ経済は成長させるより定常させていく時期ではないだろうか。
日本には綺麗な飲み水と森林がある。これは世界中を見れば当たり前のことではない。
恵まれた土地は壊すのではなく守らなくては。
そんなことを考えて私は田舎で生活をすることにした。
移住したのは仕事がきっかけだったけれど、会社を辞めてからもここでの生活を好んでしているのはそんなことを考えたから。
田舎は何もないのではなくて「余計なものは何もない」、周りを見渡せば豊かな資源がある。
何も考えずに消費する(企業の巧みなマーケティングに飲まれる)のではなく、自分の知識をもって選択し、自分の手でもできることを増やしたり、自分で作り出したい。
なるべく、自然環境に負荷をかけない形で。